☑創作男性ドクター(現在&過去)
☑オペレーターの本名等の各種ネタバレ
☑モブキャラ
☑男体妊娠描写
☑結腸、子宮責め
☑♡&濁点喘ぎ
☑各種捏造
フェロモンとか排卵受精妊娠出産に関するあれこれも、そもそも男体妊娠という 前提がハイパーファンタジーなので、私のヘキに準じて色々ファンタジーにしてます。
救世の聖櫃
レユニオンとの戦いを終えたロドスは長い整備期間に入っていた。次なる目的地はヴィクトリアだったが、貴族の支配が大きい国ではロドスも後ろ盾なしには自由に動けない。支援してくれる貴族と停泊地を慎重に選んでいる状態のままロドスはテラをゆっくりと移動していた。
短くて激しい戦いはロドスの社員、スタッフ、オペレーターたちの心も体も疲弊させた。勿論そんな彼らも『
石棺から救い出されてから怒涛の日々を過ごしていたドクターもそれを享受している一人だ。正確に言うならドクターの忙しさにつく形容詞は「穏やかな」ではなく「ほどほどな」だったが。その理由はドクターのデスクにうず高く積もっている未処理の紙類にある。その大半がレユニオンとの戦いに関するものだ。本来なら作戦行動ごとに提出する書類—編成や、作戦内容、作戦結果から見る分析レポート—を殆ど戦場に出ずっぱりだったドクターは後回しにしてきたのだ。アーミヤの「提出は落ち着いてからでいいですよ」という優しい言葉を有難く受け取っていたものの、まさに今がその「落ち着いてから」にあたる時期なので手を付けないわけにはいかない。
そんなわけで、周りの職員たちがのんびりと業務をこなしている間も、ドクターはただひとり黙々と作戦記録を再生しながら当時の振り返りをし、ひな型に情報を打ち込んでいく日々を過ごしていた。
記録映像の中で誰かが「ドクター!」と叫んだ。ふと、手を止める。
ドクター。そう呼ばれることにもすっかり慣れた。自分の名前だけは憶えていたが、どちらかと言えばただ「ドクター」と呼ばれるほうがしっくり来る。
(ああ、このころはまだ慣れていなかったな。しょっちゅう防衛拠点が崩壊しかけた)
映像の中の「ドクター」はオペレーター達に庇われながら、ひどく不安そうに采配を振るっていた。思わず笑いが零れる。
(記憶のない状態で、よくもまぁここまでなんとかやれたものだ)
まっさらな状態で、突然役割を言い渡され、あなたなら出来ると言われ、他人の命を預かる。自分の置かれている状況を理解し、自分がやらねばならないことを把握し、そして実行する。むしろ記憶がないからこそ出来たのかもしれない。失敗したらどうなるか、という記憶がないからこそ我武者羅に動けたのだ。むしろ、今の方が色々な経験を積んだせいで選択に不安と迷いが付きまとうようになっている。良く言えば人間味が増したのだろう。だが、人間としての成長と戦術指揮官としての成長がうまくかみ合っているのかは正直分からなかった。
だからこそ、初心に帰って戦闘の振り返りをすることは大事なのかもしれない。この大量の作戦記録たちを見るのも決して無駄ではないのだ。
自分の手から命が零れ落ちないように。そして願わくは更に多くの命を救い上げられるように。
(私がやれることを、やろう)
そうドクターが改めて決意したとき、コンコン、というノックの音が響いた。
「どうぞ」
ロボットながらにきちんとノックをして—彼曰く専用モジュールがあるらしい—駆動音と共に入室してきたのは臨時秘書のキャッスル-3だ。本来ドクターの秘書を勤めるエリジウムは例の隊長からお呼びがかかり、遠方任務に就いている。賑やかな彼が居ないことをこれ幸いとドクターはロボットを秘書に任命することに決めたのだ。そのおかげで書類処理も捗っていた。勿論、この事実は内緒にしておかねばならない。
「ドクター様。ケルシー様よりご伝言を預かってまいりました。ただちに応接室へ来るように、とのことです」
「応接室? 今日来客の予定あったっけ」
「ドクター様のスケジュールを呼び出し中……
「……ってことは急なお客さんか」
予定外の来客はままあることだ。だがケルシーから呼ばれるというのが少し不穏だった。
「ちなみに、アーミヤも呼ばれているのかな?」
キャッスル-3が機械独特の駆動音をたてる。
「アーミヤ様にお声はかかっておりません」
となると、客が誰なのか絞れてしまう。ドクターは編集中のファイルを保存すると立ち上がり伸びをした。徹夜続きの体がギシギシと音を立てる。
「はぁ。彼には万全の状態で会いたいんだけど」
「お体のメンテナンスが必要でしたらマスタークロージャからお預かりしたこの……」
「ああ、大丈夫大丈夫。気持ちだけもらっておくよ」
新しい
「今日の秘書業務は終了だ。戻って休んでおいで」
「応接室までの護衛業務は必要ありませんか?」
「ああ」
「了解いたしました。いってらっしゃいませ」
応接室の近くまで来ると、ケルシーが扉横の壁に背を預けて立っていた。いつものように手は腰に添えられているが、怜悧な瞳は伏せられている。ケルシーの纏う雰囲気は常に硬質だが、今日は更にいつもよりも張り詰めていた。こういう時の彼女に声をかけるのは少し緊張する。が、そうも言っていられない。
「ケルシー」
伏せられていた瞳と対峙する。やはり、その双眼はいつもよりも厳しい色を湛えていた。
「来たか、ドクター」
なんとなく気まずさを感じてドクターはぽりぽりとフード越しに頭を掻いた。
「えーっと、私の客?」
「厳密に言えば、君だけしか対応できない客だ」
あー、とドクターは空を仰いだ。やはり予想は当たっていたらしい。
「分かった。引き受ける」
「次回からは直接執務室に向かうよう言ってくれ。職員が来客用の茶器を二セット駄目にしたぞ」
「ハハ、了解」
「それと……」
開閉スイッチに手をかざそうとしていたドクターは「ん?」と振り返った。物言いたげな表情のケルシーと暫し見つめ合う。だが、数秒思案を巡らせた後彼女はきゅっと唇を閉じ、頭を左右に振った。
「いや、なんでもない。私は医療部に戻る」
そう言って踵を返したケルシーの背中にドクターは緩く頭を傾けてから、扉を開けた。
「やあ、シルバーアッシュ」
ソファに座っていた男をコードネームで呼ぶと、彼はゆっくりと立ち上がった。その様はまるで休んでいた獣が狩りのために動き始めたかのようだった。瞬間、室内の空気が変わる。勿論、彼に敵意などはなく、ただ立ち上がっただけなのだがなんとも言えない迫力とプレッシャーが部屋に満ちた。隅で控えていたスタッフが、ぶるっと震えたのが見えてドクターはシールドの下でこっそり笑った。
「変わりはないか」
「ああ、おかげさまで。今日もただおしゃべりに来ただけか? 社長って意外と暇なんだな」
ドクターの辛辣ともとれる返しに「シルバーアッシュ」もといエンシオディスは低い声で笑った。ドクターに近しい友人として扱われたい男は早速望みが叶って嬉しいのか、尾をゆらゆらと揺らしている。
「それも大きな目的だがな。先日、私が隊長として就いた任務の報告書を提出しに来た」
「ああ、あれか。メールでもいいのに」
「私はまだ国内の立場が盤石でない。ロドスの機密事項を送信するにはイェラグが未だ心もとないことを、お前は良く分かっているだろう? ドクター」
ドクターが肩を竦めた。確かに、良く分かっている。イェラグの実権を得ようとエンシオディスがたてた大いなる作戦。雪崩という変革を起こし、国の形を変えようとした男。だがその雪崩を遮ったのはドクターだった。エンシオディスの一人勝ちにさせず、カランド山でイェラガンドの威光の下、策略で荒れた大地を均したのだ。それも元通りに均したわけではなく、イェラグの発展の余地は残したままで。ドクターはその手腕を遺憾なく発揮し、未来を予想して動きこの結果に導いたわけだが、ひとつだけ予期していなかったことが起きた。
それは、エンシオディスから自分に向けられる感情だ。ドクターは彼が計画していた本来の作戦を妨げた。勿論、結果だけ見るならドクターが介入したことにより、当初エンシオディスが予想していたエンディングよりも遥かにいいものになったのだが、それでも常ならば多少恨み言を言われてもおかしくない間柄になるはずだった。だがむしろ彼はドクターに対して明確な好意を示してきたのだ。
対人で行うゲームは同じ力量の相手でなければ面白くない。特に頭脳戦を主としている場合はそれが顕著だ。やりあう度に相手を理解していき、そして好敵手というものは自分の最大の理解者になりうる。
彼は自分の勝利が揺るがないと信じていた盤上をひっくり返されたことで、ドクターが自分にとって「最大の理解者」になることに気付いてしまったのだ。真の理解者というのは得難い。大望を持つ孤高の男には特に。そしてドクターがイェラグの人間ではないという点も大きかった。
彼にとってドクターはまさに「宝」だった。そんな宝を逃しはしないとばかりに、彼はロドスが提示した不平等な契約にサインするとドクターの鼻先まで一足飛びでやってきたのだ。それ以来、時間を作ってはロドスを訪れている。
「……とりあえず、私の部屋に移動しようか」
ここで腰を落ち着けてもいいが、青白い顔をした応接室担当にそろそろ一息つかせてやりたかった。ドクターの提案にエンシオディスは頷くと、隅で縮こまっていた男を振り返った。
「もてなしに感謝する」
謝意に恐縮してぶんぶんとかぶりを振る職員にドクターも手を上げて挨拶をすると踵を返した。可哀想に。きっとエンシオディスと会うのは初めてだったのだろう。そもそも彼の体躯は小柄な種族からしたら例え座っていたとしても恐怖だ。更に国や企業の代表者特有の威圧感もある。戦場ではそのカリスマ性が
「この間は悪かったね。オペレーター契約後、まだ日も浅いのに任務へ連れまわしちゃって」
並んでロドスの廊下を歩きながらドクターが話しかけるとエンシオディスはふ、と笑った。
「遠慮のない方がいい。私とお前が特別な関係だという証明になる」
「……戦術指揮官として君の力が必要だっただけだ」
「つれないな。今はそういうことにしておこう」
カランド貿易の社長であり、ロドスとオペレーター雇用契約を結んだエンシオディス・シルバーアッシュ。彼との会話は言葉のひとつひとつに罠が仕掛けられているような、そんな錯覚を起こさせる。言葉尻を捕らえるのか、それとも受け流すのかを都度考えて話さねばならない。そもそも彼は実力を信頼している相手に対して真意を語らないふしがある。「聡いお前なら、私の考えが分かるだろう」。それが初期値になっているのだ。その信頼は嬉しいが、無意識下の頭脳労働が増えるのはいただけない。ただでさえドクターの脳みそは毎日酷使されているのだ。
執務室に着き、彼にソファ—応接室のものよりは多少グレードが落ちる—を勧めるとエンシオディスはその長い脚を優雅に組んで着席した。しゅる……と尾がソファの背を撫でていく。己の心地いい場所を探っているような仕草。これは彼がドクターと二人きりの時にしか見せない仕草だった。
エンシオディスがテーブルの上に持ってきた報告書を置いた。だがドクターはそれを手に取ることもなければ、紙面に視線を落とすこともなかった。フェイスシールドの奥から目の前に座る男のまっすぐな視線と対峙する。エンシオディスの方も、暫くドクターからの視線と部屋に満ちる沈黙を楽しむことにしたらしい。ソファの背をつたうように伸ばされていた尾の先がゆらゆらと動いていた。
「すべてを分かち合える友人になりたい」という願望を口にした男との付き合い方を、ドクターはまだ決めかねていた。どこまで彼と向き合うべきだろう。勿論、ロドスとカランド貿易の企業間として考えるならば、彼は大切なビジネスパートナーである。だが個人としてはどこまで許すべきなのか。確かに彼は皆が言うように危険な男かもしれない。だが、イェラグで彼なりの信念を目の当たりにしたドクターにはエンシオディスが、ただの野心家、策略家だとは思っていなかった。だから別に友人になりたくないわけではない。むしろ逆だ。彼がドクターに抱いている感情と恐らく似たようなものをドクターも抱き始めている。指揮官という職業柄対戦相手に事欠かないとはいえ、ドクターも常に探しているのだ。自分の脳を、心を、激しく動かしてくれる相手を。
しかも彼は過去のドクターを意識していなかった。あくまでも、イェラグで采配を振るい己を負かした男である「今のドクター」を評価して、まっすぐ向き合っている。これは、自分の存在意義がおぼろげになりがちなドクターにはとても嬉しい事実だった。
ではなぜ、彼の扱いにここまで悩むのだろう。どうしてエンシオディスを前にすると、頭の片隅で警鐘が鳴ってしまうのか。
「……何を考えている?」
暫しの沈黙の後、白駒を動かしたのはエンシオディスだった。形のいい唇が紡ぐ言葉はまるで遅効性の毒だ。それがじわりと脳に拡がっていく。
「君と、今後どう付き合っていこうかなって」
ドクターは素直に、飾らない正直な言葉を差し出した。裏表のない、ドクターにしては珍しい一手だ。
「確かに、もう何度かこのように二人きりで言葉を交わしているが、お前は私になかなか素を見せない。それについては私も気がかりだった。まだ警戒しているのか?」
鋭い一手を返されてギクリとする。確かに、ドクターはロドスの指揮官として常にフラットな存在でいるように心がけていた。戦術指揮官としての正しい振る舞い方なんて記憶にはない。だが、なんとなくそうするべきだと思っていたのだ。エリートオペレーターも、一般オペレーターも、後方支援部のオペレーターも、一般職員も、全てが一体となって「ロドス・アイランド製薬」。ロドスに籍を置くもの全てに平等に心を砕く、そして「砕きすぎない」ことが、ロドスを正しく回すためには必要だとドクターは考えていた。
ロドスはこのテラを救う
そしてそれは、エンシオディスに対しても同様だ。だがその行為は彼の願望からは離れている。彼はドクターに「特別」を求めているからだ。親友の更に上を行く、すべてを分かち合える友になりたい。それが彼の望みである。イェラグであれほどの大立ち回りをした男が持つ願望としてはとても些細なものだ。しかし彼にとっては「全てを分かち合える友人」というのは百万の富にも勝るのだろう。そして、その願いを真っ向から無下にすることは、ドクターに出来なかった。何故なら、いまや彼もロドスの所有する希望の欠片の一つになったからだ。
だからなるべく特別扱いに見えぬよう、注意をしながら彼が望む「友人としての交流」を続けていたのだ。だが、ドクターが完全に心を開いていないことを彼は見抜いていた。
勿論エンシオディスの方もドクターに全てを晒しているわけではないだろう。それでも、疲労していることを隠さず伝えてきたり、ドクターの傍で休みたいと言ってきたりするほどには心を開いていた。彼をよく知る人物が見れば驚くくらいには。
「……君は今やロドスのオペレーターの一人だ。信頼こそすれ、警戒なんてしないよ」
「信頼か……だがお前からは壁を感じる。いや、壁というよりは、まるで堤防か。本来の感情を溢れさせないようにせき止めている、が近い」
再度、鋭い一手を受けドクターはフェイスシールドの奥で苦い顔を作った。
エンシオディスがイェラグを守るという大願を持っているように、ドクターもとある目的を抱えている。それは「テラに生きる命の救済」だ。天災と不治の病に苦しんでいる多くの命を救いたいという願い。大それた願いだったが、石棺から目覚めて以降、数々の出会いを経てドクターの胸にはじわじわとその想いが根を張った。記憶を失って初めて目にした大地。そこで生きる全ての命が今やとても愛おしくなっていたのだ。
一個人として大勢に愛情を注ぐのは自由だ。だが、指揮官として動くのなら偏った愛情を注ぎ過ぎてはいけない。だから、ドクターはロドスの誰ともつかずはなれずの関係を維持していた。エンシオディスの言う通り、感情を制御して。彼はそんなドクターの葛藤も全て見抜いていたのだ。
黙りこくったドクターをエンシオディスは先ほどよりも強い眼差しで見つめた。まるで、フェイスシールドの奥の瞳を射抜きたいとでも言うような強い視線。外から顔は見えないはずなのに、彼はしっかりと「中」のドクターを見ていた。
「人となりを知りあうには対話が肝要。私がロドスを訪れるのはお前との会話が目的だ。だからこそ、あえて聞こう。私とのおしゃべりは退屈か?」
「……まさか。話題も豊富だし、君との会話は脳の刺激になっている」
対話を望んでいるなら言葉を省く癖はやめろよ、とは言えなかった。
「では何故感情をせき止めている? 私に何か問題があるなら、教えてくれ。これから共に長い時を過ごすのだから不満は初期に伝えたほうがいいだろう」
エンシオディスのストレートな物言いに、ドクターは言葉に詰まった。また頭の奥で警鐘が鳴っている。そう、こういうところだ。いちいち言い回しが大げさというか、意味深なのだ。わざとそういう言葉を選んでいるのか知らないが、聞く人が聞けば、勘違いしそうな言葉を投げかけてくることが多い。まるで……真摯に口説かれているような気分になる。それもまたドクターがエンシオディスへの深入りを躊躇する理由だった。
自分の魅力を分かっていて、必要であればそれを武器に出来る賢い男。特段人の美醜を気にしないドクターであっても、やはり彼の際立った美しさには会う度心を動かされてしまう。そんな男が面と向かって、艶やかさのある低い声で意味深な会話を繰り出してくるのだ。たまったものではない。
単なる駆け引きならばドクターだって得意だ。だが、こういった類のものは別だった。なにせ記憶喪失により本来ならある程度経験してきたであろう人生経験がすべて消えているのだから。未だにグラベルの
だが、その事実がバレてしまうと弱点になりかねない。ゆえに、なるべく色恋が絡む話題の中心にならないようにしていた。
そんなドクターにとって、エンシオディスの全てがじわじわと身を蝕む毒だ。その口から発せられる言葉を全て信じることができないのも仕方ないことだった。
でも、彼が違和感に気付いている以上、このままはぐらかすことは難しいだろう。仕方ない、とドクターは腹をくくった。ロドスの誰にも言ったことのない、自分の心を、目の前の男に見せてやるしかない。これはドクターなりの譲歩だった。
「……じゃあ、友として正直に言うよ。でも、君の気分を害したらすまない」
ドクターの珍しい前置きにエンシオディスの尾の先がぴくりと動いた。
「聞こう」
すっ、と瞳を細め姿勢を変える。これは、彼が真剣になったときの合図だ。ドクターはふーっと息を吐いてソファの背もたれに体を預けた。いつもより硬く感じるのは、自分の体が緊張しているからかもしれない。
「君も知っているだろうが、私はロドスに籍を置く大勢のオペレーターを動かす権利を持っている。ざっと計算してもその数は二百を超えて、後方支援部を含めたら更に多くなる。そして、有難いことに、
「お前がもたらす奇跡とも呼べる勝利を日々目の当たりにしていれば、その結果は当然だろうな。私もお前を慕う一人だ」
「……私は時と場合で頼りにするオペレーターを変える。君や、エリートオペレーターたちのような一騎で戦況を変える人材がいれば戦いが楽になるのは当然だ。だが、戦況を変えるのは力だけではない。人と人の繋がりが影響することもある。その人しかもっていない知識や術が糸口になることもあるだろう。つまり私を信頼し慕ってくれる人の数だけ、私の戦術は広がるということだ」
「違いない」
「だから、私はオペレーターたちをなるべく平等に扱っている」
「内乱を危惧してか?」
「内乱って言ったら大袈裟だけど、まぁそうだね。待遇の差は不満につながるだろう。働いて欲しいときにストライキを起こされたら大変だからね」
「管理職の永遠の課題だな」
軽口にドクターが小さく笑った。視界の端で、エンシオディスの尾がゆるりと持ち上がる。
「つまり、
ああ、とドクターが答えるとエンシオディスは視線をドクターに縫い止めたまま、ゆったりと長い足を組み替えた。
「私がいくら心を明け渡しても、真の意味でお前が私にすべてを晒すことはないと」
「……今のところは」
「慣れない駆け引きはするな、ドクター」
にやりとエンシオディスが笑った。暫し、沈黙が流れる。彼はドクターの言葉をゆっくりと咀嚼し、飲み込んでいるかのようだった。一方、真実を吐露したドクターの方はというと静かに頭を酷使していた。この告白によってビジネスパートナーを失った場合、次の手が必要になるからだ。
「……今の説明でお前の事情は理解した」
たっぷりと間をとった後、そう言ったエンシオディスにドクターが体の緊張をゆるめる。声色にも特に不機嫌さは乗っていない。関門を突破した。そう思った。
「だが、理解はしても私がそれを承知するかはまた別の話だ」
ゆるみはじめていた執務室の空気が再び、ぴしりと固まった。「は?」という間抜けな音がドクターの口から漏れる。
「理解した上で聞きたいのだが、続けて正直に答えてくれるか?」
ずるい聞き方だ。実に彼らしい。頭の奥で警鐘が鳴っている。
——だめだ、誤魔化せ。この男に自分の心をこれ以上見せるべきじゃない。
冷静な声は、誰のものだろう。記憶を失う前の自分の声か。それとも理性が具現化した音だろうか。いつのまにか喉がカラカラに乾いていた。
質問による、と答えるつもりが目の前のエンシオディスの静かなプレッシャーに圧されて、結局ドクターは絞り出すように「ああ」と答えてしまった。
「お前は、永遠にその姿勢を崩さないのか。この先も俯瞰して全てを眺め、この大地で生きる民の一人にはならないと?」
「……少なくとも私の役割が終わるまでは」
「つまり、この大地が抱える諸問題を解決するまでお前は個としての幸福を求めないというわけか」
大袈裟だな、とドクターは笑い飛ばしたかった。だが、エンシオディスの瞳にどこか悲し気な色が漂っているのを感じてやめた。
「なんで、君がそんな顔するんだよ……別に関係ないだろ。私が幸せかどうかなんて」
「自分が心を砕いている者の幸せを願うのは、当然だろう」
それに、とエンシオディスが言葉を区切った。ドクターにふっと微笑みかける。瞳はまだ少し悲し気だったからどこか哀愁の漂う、そんな笑みだった。普段の不敵な笑みとは違う。思わずドクターはどきりとした。
執務室の広さはたかがしれている。テーブルを挟んでいるとはいえ、手を伸ばせば相手に触れられる距離だ。そして、それをよく理解しているエンシオディスがおもむろに手を伸ばした。黒い手袋を纏った指でドクターのフェイスシールドを、まるでその下にある頬の輪郭をなぞるように触れる。
「私にとってお前は唯一の存在だ。幸せにしてやりたい。……願わくは私の手で」
なんて願いを口にするんだ。色恋に疎いドクターにだって流石に分かる。分かってしまう。これは友人に向かって言う言葉の域を超えている。
覆いを隔てているはずなのにドクターはエンシオディスの体温を感じた。きっと彼の口から発せられた言葉の熱が伝播しているに違いない。その言葉はまるで真っ赤に熱せられた焼き鏝だった。それを今、脳みそに押し付けられている。ドクターは自分の脳髄が焦げる匂いを感じた気がした。
シールドに触れている手を振り払うのも、少し体を引いて彼から距離を取るのも、簡単だ。だが、ドクターは動けなかった。心臓の鼓動がただ、ただうるさい。フェイスシールドが体から立ち上った熱で曇ってしまいそうだ。
ドクターにとって、エンシオディスはビジネスパートナーであり、オペレーター『プラマニクス』と『クリフハート』の兄であり、そして希望の欠片の一つだ。本来、何か、特別な感情を抱く相手ではないし、むしろ抱いてはいけない。
——この鼓動のうるささは、ただ驚いているだけだ。頬に集まった熱も頭が冷えれば、すぐに消えていくはず。冷静になれ。焼けた頭を冷やすんだ。
ドクターは心の声に従って詰めていた息をほんの少し吐いた。たったそれだけの行為だったが、体内の熱をどうにかこうにか吐き出せたようだった。目の前が少し曇ったが気にしないことにする。
「……君にはまだ、やることが沢山残っているだろう。私にかまけている暇は、ないはずだ」
頬に見立てて覆いを撫でていた指が、その発言を嗜めるように唇の場所に移動した。まるで見えているかのように、シールド越しに今度は唇を撫でられる。直接触れられているわけではないのに、ドクターは無意識に唇を閉じた。
「お前が言った通り、存外、社長というのは暇でな」
意趣返しのように自分の言葉を使われてドクターは閉じた唇をそのまま、もごもごと動かした。
「……私と友人になりたいんじゃなかったのか」
「そうだな」
「どうにも、私には君がそれ以上のものを望んでいるように感じる」
「一つ手に入ると、もっと欲しくなるものだ」
つまり、もう友人としてのドクターは手に入れているということらしい。傲慢な物言いが彼らしくてドクターは再び唇を閉じた。
「本当の意味でお前の唯一になりたいと願ってしまったのだ、許せ」
囁くような声にじん……と耳朶が痺れた。駄目だ、彼の言葉は熱すぎる。ドクターは思わずシールドを外して耳を塞ぎたい衝動に駆られた。でも、覆いを外せば今度は彼の視線と直に向き合う羽目になる。言葉よりも更に雄弁な、この熱い視線と。シールドを取るのは下策だと判断したドクターは、彼の言葉を別方面に向けることで熱を逃がすことに決めた。
「つまり、君はロドスの皆と張り合ってるってことか?」
「……そういう側面もあるかもしれないな」
「そう、か。それなら……」
子供じみた独占欲のようなもの。そう思えば恋や愛に縁のないドクターにも少し理解できた。大人になってから手に入った友人に昂って、感情が制御出来てないとすればエンシオディスの勢いも分かる。
何か考え始めた様子のドクターを見て、エンシオディスは双眼を鋭く細めた。ドクターが無理矢理別方向に思考を向けて、逃げを打とうとしていることに彼は勘付いていた。だが、すでに狩りは始まっている。そして彼はこの狩りが時間をかけて行うパターンのものだと理解していた。今まで追った中で一番賢いだろう、最愛なる獲物。確実に仕留めるために、今は一旦逃がしてやろうとエンシオディスは密かに決めた。
名残惜しげにもう一度、ドクターの唇を覆い越しに撫でる。次は、隠された本物の唇に触れたいと思いながらゆっくりと立ち上がった。
「今日はお前の気持ちを聞けて良かった。話してくれて感謝する」
ハンガーラックの上で羽繕いをしていたテンジンを自分の肩に止まらせると、彼は杖をしっかりと持ち直し外套の裾を翻してドクターを振り返った。
「だが、お前の唯一になりたい気持ちは変わらん。そして、私は心を決めたぞ」
決めたって何を、と聞くのが怖くてドクターは押し黙った。そんな些細な抵抗さえ予想通りなのだろう。エンシオディスは、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「お前に私の愛が伝わるよう、努力するとしよう」
そう言って彼は出て行った。扉が閉まり、靴音が聞こえなくなってもまだ、ドクターは呆けていた。彼がとうとう口にした愛という言葉が脳髄を焼いている。もはや、頬だけでなく、体全体がじんわりと熱い。一人になった執務室で、ドクターはまるで息が出来ないとでも言うように、乱暴にフェイスシールドを外した。外気に触れても頬はまだ熱い。先ほどまで彼がいた空気を胸いっぱいに吸ったら、どくん、と心臓がもう一つ跳ねた。
「……勘弁してくれ」
胸を押さえながら絞り出した声は、掠れて、弱弱しい。でもそれを心配してくれる人はこの部屋にいない。静かな室内で、自分の心臓の鼓動だけが相変わらずうるさかった。
エンシオディスからの猛攻を受けた後、なんとか心を落ち着かせたドクターはロドスの食堂を訪れた。徹夜続きの体が珍しく、空腹を訴えたのだ。彼の余韻が残る執務室で何かを口にすることは憚られて、ドクターは疲労を訴える体を引きずって食堂の一角に腰を落ち着けた。
「あれ、ドクター。珍しいね! ちゃんと夕飯の時間に
はつらつとした声と共にドクターを覗き込んだのは「クリフハート」、エンシアだった。悪戯な尾がしゅるり、とドクターの腕に一瞬だけ巻き付く。先ほどまで自分を甚振っていた男の影を感じてほんの少し、体が強張った。
「なんだかやけにお腹がすいてね……カロリーが必要かなって」
「その感覚だいじだよ、ドクター。長時間動くなら特にエネルギー補給はこまめにしないと……って、あれ?」
くん、とエンシアが鼻を鳴らした。
「もしかして、お兄ちゃんが来てた?」
「え? あ、ああ」
ドクターはギクリとした。君の兄につい先ほどまで口説かれていた、なんて勿論言えない。
「あ、えっと、ほら、お兄ちゃんの香水が、ドクターからちょびっとね」
えっ、とドクターは驚いた。彼と執務室で過ごした時間は一時間に満たない。なのに他者が気付くほど香りがうつっているのか。腕を持ち上げ袖に顔を近づけてみたが勿論何も香らなかった。
「そんなに匂う? 私はこれ付けてるから分からないんだよね」
フェイスシールドをこんこんと指先で叩くと、エンシアが複雑な表情を浮かべながら頷く。
「……そっか。そうだよね。まぁいいや! ところでドクター何を食べようと思ってたの? 今日はヤーカおじさんの当番の日だからお勧めならあたしにまっかせて!」
ぐるんと尾を一回転させて胸を叩く姿が可愛らしくて、思わず笑みが漏れる。
「そうだな。食欲はあるといっても、ここ数日ろくに食べてないから、消化に良さそうなのがいいかな」
その言葉にエンシアの眉がぴっと吊り上がる。丁度注文を取りに来ていたグムも聞いていたのか大きな声を上げた。
「ドクターってば! 何も食べないのはだめだよってグム何回も言ってるのに!」
「エリジウムさんが居ないから無理矢理口に詰め込んでくれる人がいないんだね? ドクター、体調管理も仕事の一つだよ。ちゃんと三食食べなきゃ!」
可愛らしい声で二人から詰られて、ドクターは小さい声でごめんなさいを三度言った。
「でもほら、今日はちゃんと空腹を感じたから食堂に来たんだよ。そこは褒めてほしいな」
「もー、すーぐ甘えるんだから!」
「とにかく! グムが超特急で美味しいもの作ってくるから、ドクター全部食べてくれなきゃやだよ!」
「私も! ヤーカおじさんに頼んでくる!」
ドクターの返事を聞かぬまま、エンシアがグムの手をひきキッチンカウンターへ入っていく。一人になったドクターは喉の渇きを思い出して、フェイスシールドを外した。本来ならロドスの中であっても着用義務のあるものだがドクターは頻繁に外していた。顔も知らない男に命を預けたいと思うだろうか、という持論のもと決めたことだ。過去の自分は決して外さなかったらしいが、過去は過去、今は今だ。
食堂に漂う美味しそうな匂いを吸い込みながら、ぐいっとコップの水を呷る。空っぽの胃に水が落ちていくと余計空腹を感じた。石棺から目覚めて以来、これほどの空腹感に襲われたことがあっただろうか。今なら、二人前くらいぺろりと食べられるかもしれない。体が燃料を欲している。そんな感覚だった。
「ドクター」
低い声で呼びかけられ振り返ると、マッターホルンが皿を手にして立っていた。
「あれ、早いね」
「お嬢様からドクターが珍しく食欲があるとお聞きしまして。ひとまず一品お届けに」
「そうなんだよ。なんだかやけにお腹が減ってさ」
「体が欲しているんでしょう。食べたい時に食べるのが体にも心にも一番です」
そういって目の前に置かれたのは温野菜のサラダだった。塩気のきいていそうな干した獣肉と少し柔らかめに蒸しあげられた野菜がドレッシングで和えられ、真ん中には半熟の卵、そして全体に削ったチーズまで散っていた。仕上げにかけられている香辛料はイェラグのものだろうか。嗅いだことのない香りだったが一層食欲をそそった。
「ああ、美味しそうだ。ありがとう」
フォークを手に取ったドクターが勢いよく、がつがつと食べ始める。次々に食べ物を口に運ぶその様は、やはり珍しかった。心配そうにその様子を伺いながら、マッターホルンがコップに水を注ぎ足す。
「今、グムお嬢さんが特製グラタンをオーブンに入れたところです。そのご様子だと付け合わせのパンをいくつかお持ちしても食べられそうですね」
「うん。今日は食べられそうだな。デザートまでいけるかも。アズリウスが何か作ってない?」
「丁度、昨日の午後に新作ケーキを作っていらしたので、冷蔵庫にそのまま置いてあるはずです」
「じゃあ、それも……」
一切れ持ってきて。そう言いかけてドクターはぴたりと動きを止めた。今しがた摂取した食物が体の隅々に行きわたっているような感覚がする。医学的にはありえないのに、入れたばかりの栄養が瞬時に体内をめぐっているような気がしたのだ。そして同時に腹部に強烈な熱さも感じた。
「ドクター?」
突然固まったドクターにマッターホルンが慌てて背中に手をやる。
「大丈夫ですか? やはり、無難にスープから始めたほうがよかったか……」
「……っ。だいじょ、ぶだ。気持ち悪いとかじゃなくて……」
おかしいとは思った。異常な食欲は何か、体からのサインだったのだ。視界がぐるぐると回り始めてドクターは静かに後悔した。このままここにいるのはまずい。こんな、人が多いところで倒れたら皆心配する。
「ごめ……グラタンとケーキは後で、執務室の方に」
立ち上がろうとしたドクターがよろけて、椅子を後ろに倒した。ガタン! という音とマッターホルンが「ドクター!」と叫ぶ声が食堂にこだまする。夕飯時で賑わっていた食堂が水を打ったように静かになった。
マッターホルンの腕の中でドクターは、静かになった食堂がざわめきを取り戻すのを聞いていた。体が、腹が、燃えるように熱い。心臓がまたうるさく鳴っている。でもそれもつかの間の喧騒だった。すべての音は緩やかに消えていく。ドクターは再び静寂の海に身を任せた。
◆目覚めはいつも突然だ。貴殿が望もうと望むまいと、変化は始まった。
『まったく、厄介な体になったものだな』
『あの装置にそんな機能があったとは。まぁ、私は瀕死だったんだ。そもそも知るべくもないが』
『あれがどこまでを病やケガと認識したのか分からないが、入れられる寸前まで私の精神状態は、確かに病んでいた。人の命など、自分の目的のためには取るに足らないものだと思っていたし、オペレーターたちが補充のきく駒にしか見えなくなっていた』
『だから「病んだ私」は切り離されたんだろう。君のそれが目覚めるまでは、一応残滓として存在していたんだが……それももう終わりらしい』
『私が消えたら君は過去を思い出すことが出来なくなる。でも、それでいい。今の、テラに生きる命を愛している君が、本来の私だったんだ』
『君がこの大地で私の意思を引き継いでくれることを願うよ』
「……っ、待て……!」
「ドクター⁉」
誰かが目の前から遠ざかる。それに焦って無意識に伸ばした手。
「アーミヤ……」
掠れた声で彼女の名を呼ぶと、焦げ茶色の耳が心配そうに揺れた。ぎゅっとそのまま強く手を握られる。
「起きたか。気分はどうだ、ドクター」
「ケルシー、私は……」
「君は今、医療部にいる。といっても、私が許可した者しか入れない奥の集中治療室だから見覚えはないかもしれないな」
ドクターは上半身を重そうに起こして、ゆっくりと室内を眺めた。確かに、見たことのない医療機器がいくつかある。入り口のドアもまるでシェルターのようなしっかりとした作りだ。今までここに運び込まれたことはなかった。
「食堂で倒れる前の記憶はあるか?」
「確か……マッターホルンが作ってくれたサラダを食べて、グラタンとケーキを食べ損ねた」
「記憶中枢に問題がないようで何よりだ。君は倒れる前に異常な食欲を見せたと聞いている」
「ああ。うん、そうなんだ。いつもなら睡眠欲が先に来るはずなのにどうにもお腹がすいて」
そして食物を胃に入れてすぐ、体に変化が現れた。
「いきなりがっついたのがまずかった? マッターホルンが気にしてなきゃいいけど……」
「そう単純な話なら良かったのだがな」
含みのある言い方をしたケルシーをドクターがじっ、と見つめる。
「何か、見つかったのか」
「その表現は正しくない」
ドクターが言葉の意味を考えている間にケルシーは靴音を響かせて室内を移動した。医用モニターの前で立ち止まると、画面の電源を入れる。
「覚醒直後でも君の頭は問題なく働いているようだし、このまま説明に入るとしよう。いいな? アーミヤ」
こくんとアーミヤが頷いた。
「まずはこれを見てくれ」
そう言うとケルシーはモニター横の端末をいじって画像を一枚画面上に出した。
「これは過去の君の診断データだ。定期健診で臓器に異常がないかスキャンしたときのものになる」
ついこの間もその定期検診を受けたドクターは検査の内容を思い出しながら頷いた。ケルシーは表情を変えずに、もう二枚画像を出した。
「こちらは君がロドスに復帰して初めてとった腹部のスキャン画像。そしてこれが三日前の検診のときのものだ。この二枚、過去のものと比べて違いが分かるか」
「……と言われても。今の私に医学の記憶がないのは知ってるだろ」
「空洞があるだろう。ここに」
言われてみれば確かに、見比べると一枚目の画像にはない空洞が二枚目と三枚目にはあるような気がする。しかもその空洞は、二枚目と三枚目ではサイズ差があった。大きくなっている。医者がこのように結果を見せてくるときは大抵何か良くない状態のときだ。
「あるはずの臓器が無くなったとかそういう話か?」
「逆だ。ないはずのものが出来ている」
「え?」
「ぽっかり空いているわけじゃない。臓器の境界が不明瞭になっているだけでここには別の臓器がある」
「別の臓器……」
ぎゅ、と傍のアーミヤがドクターの服を掴んだ。この様子だと彼女はもうそれが何か知っているのだろう。
「言ってくれケルシー。私は大丈夫だから」
どうせ一度は死にかけた体だ。助けられたとはいえこの体がどれだけもつのかは正直なところわからない。前線の指揮をとる以上死との危険は隣り合わせだから、それなりに毎日覚悟もしている。だから今更、自分の命を縮めるものが体内に見つかったところで、なんともない。そんな気持ちをこめてドクターはケルシーを見つめた。
暫し視線を交わらせた後、彼女は表情を変えないまま、ゆっくりと口を開いた。
「子宮だ」
「……は?」
「これは子宮だ、ドクター。本来なら女性しか持たない神秘の器官。それが君の腹に何故かある」
「ちょ、っと待て」
「卵巣までは確認がとれないが、おそらく他の臓器の影になっているのだろう」
「いやいや、だから待ってくれ」
「君が倒れたのはおそらく臓器が急激に成長したことが原因だろう。子宮の場所は直腸の奥側だと思うが、これも正直よく分からない。
全く待とうとしないケルシーは矢継ぎ早に情報を伝える。混乱状態の頭はすでに処理能力の限界を迎えていた。だが、整理するのはひとまず後だ。今は必死にケルシーの説明に食らいつくしかない。
「……開ければ確実、ってのは、腹部を?」
確認のため発した言葉に今まで沈黙を保っていたアーミヤの耳がびくん、と揺れた。
「手術は、私は反対です。ドクターの負担が大きすぎます」
「君はどうだ。正体不明の臓器を早くどうにかしたいと思うか」
「今は腹よりも頭の方が、変な感じだよ」
「そうだろうな」
「ちなみに今まで、このことを話さなかった理由は」
ドクターが石棺から助け出され、ロドスに戻った時に撮った二枚目。そこにすでに小さいながらも空洞があるのだ。ケルシーが見落とすはずはない。ということは彼女が意図的に放置したということだ。
「二枚目を撮ったときに私の中でこれが子宮かもしれないという見立てはあった。だが、記憶を失った状態の君にこの事実を伝えるのは得策ではないと判断した。これが君の体を明確に蝕むものであれば勿論、初期に対応しただろうが」
確かに。あの静かなパニック状態のときに追い打ちのようにこの新事実を言われたら、頭がどうにかなっていたかもしれない。
「レユニオンとの戦いに集中してほしかったのもあるが、君の精神面を危惧した上での判断だ」
ドクターはその答えで充分だ、という意思をこめて頷いた。納得はしたが、あまりにも突拍子がないのでもしかして実は執務室で寝落ちしていて、夢を見ているのではとさえ思う。だがいくら手の甲を抓っても覚める気配はなかった。信じ難くともこれが現実ならば、ドクターとしてロドスにとって最善の道を選ばなくてはいけない。どんな時でも冷静に。それなら、とドクターが言葉を続けた。
「今のところなんともないし。様子見続行でいい。開腹手術なんてしたら暫く動けないだろう。それは困る」
ドクターの答えにケルシーは微かに顔を傾けて了承の意を示した。
「この件に関しては君の意見を最大限尊重しよう。だが定期的な検査には協力するように。何せ前例がない。本当に君の体を害する臓器でないか、経過を観察する必要がある。もし他の臓器との癒着や、臓器の成熟に伴う体の異変があれば、摘出の必要が出てくることもあるからな」
医用モニターをオフにしながらケルシーが一度言葉を区切った。
「分かってはいると思うが、この件の機密レベルは現時点で最高ランクだ。オペレーターには、例え信頼できる秘書だろうと絶対に漏らすな」
「勿論。むしろ、言えないよ。気味が悪いだろ、こんなの」
「……そう思うものもいるだろうし、思わないものもいる」
言いながらケルシーは小さい電子機器をドクターに手渡した。
「内臓の変化に関してはひとまずこれで診る。毎日腹部をスキャンして私に送信するように」
「オーケー」
とんでもないことになった、とドクターはため息をつきながら装置をポケットに押し込んだ。
「今日はこの話だけで終えよう。君の気持ちが落ち着いたら精密検査をさせてくれ」
問答無用で検査に入るのかと思っていたドクターは意外だ、という表情を浮かべた。優しいところもあるんだな、という言葉は飲み込んでおく。Mon3trに開腹手術をされたくはない。
「大丈夫ですか、ドクター」
ポケットの中の機器を指でいじりながら呆けていると、アーミヤが心配そうに声をかけた。
「うん。びっくりはしたけど、今日まで気付かなかったくらいだし。今まで通り過ごすさ」
今まで通り、という言葉にケルシーが眉を微かに動かす。
「アーミヤ、明日は朝一番に来客があるのだろう。準備をしなくていいのか」
「そうでした!」
ケルシーの言葉にぴん! と長い耳が立つ。慌てて踵を返したものの、不安げな視線をもう一度ベッドの上のドクターに向けた。
「私はもう大丈夫だよ」
「はい……。でも、何かあったらすぐ報告してくださいね」
アーミヤが出ていった後、再度施錠するケルシーにドクターは肩を竦めた。話はまだ終わっていないようだ。むしろここからが本番なのかもしれない。
「さて。それじゃあ、今からより具体的な話になるのかな?」
「そうだ。生々しい話になる。アーミヤには聞かせたくない」
言葉のニュアンスから何となく察しがついてドクターはゆるりと視線を泳がせた。ケルシーが白衣をはためかせて振り返る。
「もし体内に子宮だけでなく卵巣も出来ていたら、君は男でありながら妊娠可能な体になっていることになる。それは理解しているな?」
「ああ。人体の基本的な仕組みとして理解はしている。だが過去の私にはなくて、今の私にそれがある。ということは……」
自分の変化の分岐点として真っ先に思い浮かぶもの。レユニオンとの最終局面で乗り込んだチェルノボーグの研究施設。そこに鎮座していたあの、『家庭用生理機能修復マシン』がドクターの脳裏に浮かんでいた。ケルシーは三年前に重傷を負った自分をあの機械に入れたと言った。そしてあれが治せるのは自分だけであるとも。現に、あれに入った感染者に全く別の作用が働いてしまったのを、あの場で自分たちは目の当たりにしたのだ。
「この臓器が作られたきっかけは石棺、で間違いないんだろう?」
ドクターが小声で発した単語に、ケルシーの怜悧な眉がぴくりと動く。あの装置はおそらくこの大地で一番価値のあるものだった。パワーバランスを崩すほどの、所持した国が傾くほどのもの。思わず声を潜めてしまうのも仕方ない。
「……そうだ。おそらく、君を治す段階で出来た『副産物』だと私は考えている。重ねての補足になるが、
はは、とドクターは笑った。副産物にしてはやりすぎだ。しかも結果だけ見れば記憶と引き換えに得たことになる。
「しかし、子宮が出来ているって実感すらまだないのに……。そもそも構造的に妊娠なんて本当に可能なのか?」
「見た限りでは臓器として完成しているようだし、本来の機能を果たしたとしても驚かない」
うわぁ、とドクターは自分の薄い腹に手をやった。
「これは医師としての質問だが、今日まで君は腹部に違和感を覚えたり、痛みを感じたりしたことは?」
「ない」
「今まで陰茎及び肛門からの出血はあったか?」
具体的な問いかけに一瞬言葉に詰まる。だが、「患者」としてドクターは口を開いた。
「一度も」
「そうか。ではやはり、子宮に見えているそれは通常の女性のものとは全く異なるメカニズムで動いているのだろう。そうなると医学的な常識に当てはまらない可能性が高い」
「と言うと?」
「その臓器を働かせたら君の命に係わる可能性があるということだ」
ぽん、と小さな箱が投げられてドクターは危なげにそれを受け止めた。
「君のプライベートなことにまで干渉する気はないが、今回は事情が事情だからな。何がどうなるか分からない。自衛はしっかりしろ」
手の中におさまった小箱にドクターは引きつった笑みをうかべた。ゴム製の避妊具。普通なら自分が着ける側だが、流れ的におそらく違う意味を持っているのだろう。
「コンドームとは、えらくオーソドックスな対策……じゃなくて、そもそも私にそんな相手いないぞ!」
なぜこんな話を他でもないケルシーとしなければならないんだ。ドクターは再びベッドに倒れ込みたくなった。だがケルシーの表情はいたって真面目だ。
「君が最初から女性ならアフターピルも処方できるがな。石棺で変化したイレギュラーな体に効くとは思えない。胎内に精子を入れないのが一番確実だ。今は対象がいなくとも今後出来る可能性はゼロではない。勿論、君の未来の恋人が女性であるなら、それは別の用途に使ってもらって構わないが」
別の、じゃなくて本来の用途だろという突っ込みをごくんと飲み込む。確かに好きになったら性別は関係ないのだから男女どちらの恋人が出来てもおかしくはない。だが、どちらにせよ自分が誰かに夢中になるという未来は今のところ想像できなかった。そう、今のところは。ほんの一瞬、脳内を過った影にドクターは気付かなかったふりをした。
「当分は仕事が恋人だよ」
「……そうか。だが念のため持っておけ」
ケルシーの言葉を最後にひとときの沈黙が満ちる。勿論コンドームの避妊率が百パーセントでないことも互いに分かっている。だがそれでも持っておけ、と彼女は言った。逆に言えばそれしか対策が出来ないのだ。
「君の体に起こったことにはおそらく理由がある。そうなると変化は臓器だけに留まらないだろう。これはまだ懸念事項の一つだが……」
ケルシーの言葉を遮るように通信モニターが音と共に明滅した。画面に視線を落とした彼女が小さい溜息を漏らす。どうやら急患の呼び出しらしい。
「続きは検査をしてからでいいだろう。君も戻って休みたまえ。日取りは追って連絡する」
部屋の外から何人かの声が聞こえてドクターはビクッと体を揺らした。慌てて小箱をスラックスのポケットに突っ込む。スキャナーとコンドームの箱で両のポケットはぱんぱんだ。オペレーターたちと顔を合わせる前に部屋から出ようとベッドから下りたドクターの背中に、ケルシーが重々しく「ドクター」と呼びかけた。
「ポケットのそれらは、お守りでしかない。そのことを忘れるな」
製薬会社であるロドスの医療設備は同業他社に比べて頭一つ抜けている。ドクターもそれは理解していたが、自分がその設備の恩恵にあずかることになって、改めてロドスの凄さを知ることとなった。
数か所の検査室を渡り歩き、数時間かけて念入りに精密検査を行った結果、ドクターの変化について様々なことが明らかになった。再び医療部の集中治療室に呼びされたドクターはいつもよりも数段険しいケルシーの顔とにらめっこをしながらかたく結ばれた唇が開くのを待った。ここにアーミヤが居ればもう少し雰囲気も和らぐだろうに。だが、彼女には簡易的な報告で済ませたらしく、残念ながら不在だった。おそらく前回同様生々しい話が主になるからだろう。
「先日の検査結果だが」
とうとうケルシーの唇が開いた。ごくり、とドクターの喉仏が上下する。
「まず、新しく増えた臓器、便宜上『子宮』と呼ぶが、現時点では他の臓器との癒着などは認められない。完全に新しい臓器として形成されている。女性のそれとは若干の差異もあるが概ね今の状態で完成していると思われる」
検査で分かって良かったと安堵の息をつく。ひとまず、開腹手術による確認行為は免れたわけだ。ドクターは無意識に自分の腹に手を当てた。
「子宮と卵巣があるのにも関わらず、君に女性のような月経期間や排卵兆候がない理由だが、これに関してはまだ検証が足りない。だが、これから説明する新事項を鑑みると、多少の予測はつく」
「新事項……」
「君の体に新しく出来ていたものは子宮と卵巣だけではなかった。いや、この場合出来た、という表現は適切でないな。退化していたものが本来の姿に戻っていたというべきか」
「というと?」
「汗腺についての知識はあるか? もしくは、目覚めてから生理学の知識を学び直したか?」
抜き打ちテストでも始まるのだろうか。ドクターは緩くかぶりをふった。
「たまに暇つぶしに本棚を漁っているが医学書はまだあまり……」
「君は今、汗をかいているだろう」
「半分は冷や汗だと思うけどね」
「その汗を分泌しているのが汗腺だ。私たちの体には二種の汗腺が存在している。一種は全身にあり、主に体温を下げるために利用される。そしてもう一種は前者よりも大きく、分泌機構も異なり主に頸部、腋窩、外耳道、鼻翼、乳輪や外陰部等に存在している。これは性ホルモンの影響を受け、フェロモンとも密接な関係にある」
「なるほど」
「だが、石棺に入る前の君は、私たちとは違いこの二つ目の汗腺が退化していたんだ。おそらく、君に私たちのような耳や尾がないことにも関連があるのだろう。故に、過去の君はフェロモンを出すこともなければ逆にそれを感知することも出来なかった」
「でも、今は出来るようになった?」
「そうだ。君は私たちと同様にフェロモンを生み出すことが出来る。勿論感知することも」
「それで、その変化は、私にどのような影響があると考えているんだ? ケルシー医師」
ケルシーが一呼吸置いた。室内には機器の稼働音が響いている。ドクターはじっと答えを待った。
「石棺の影響で子宮が形成され、汗腺が復活していたにも関わらず、今まで君の体は沈黙を保っていた。それがここにきて急速に目覚め動き始めている。これは私の推測に過ぎないが、君の体は他者の性フェロモンを感知したことで動き始めたのではないか」
「……」
「何か、思い当たることはないか。ドクター」
どくん、と心臓が鳴った。まさか、という単語が脳内をぐるぐると回り始める。珍しく食欲を感じたあの日に会った人物。自分に愛を語った男が、一人居る。黙して考え込むドクターにケルシーが溜息をついた。
「私の方でも、あの日食堂で君と話したオペレーターたちに話を聞いている。興味深い話をしてくれたのは、クリフハートだ」
ドクターがぎくっと肩を揺らした。分かりやすい動揺にケルシーから鋭い視線が飛ぶ。
「プライベートな話題だからな。それも自分の親族が関わっている。彼女は話すべきか最後まで迷っていたが……君が集中治療室に入ったことで心を決めたらしく、話してくれた」
「なん、て?」
「あの日、食堂で会ったドクターから雄のフェロモン臭がしたと。種族はフェリーンだ」
がん、と後頭部を殴られたような衝撃が走った。
「でも、エンシアは、香水の匂いだって……」
「指摘はされていたのだな」
語るに落ちたドクターにケルシーは再び溜息をついた。
「君がフェロモンを感じ取れないことを知っていたから、気を使ってそう言ったのだろう。しかし……やはり原因はエンシオディスか」
「彼とは執務室でほんの数十分話しただけだ。本当にそれ以上のことはない」
「まるで浮気の弁明のようだな。だが事実は変わらない。エンシオディスはその数十分間、他者が勘付くほど濃いフェロモンを君に浴びせかけていたのだ」
「私でさえ知らなかった汗腺の変化を、彼が知っていたと?」
「いや、それは考えにくい。君が石棺の影響を受けていることはロドスでもトリプルSランクの情報だ。いくらエンシオディスでも知っていたとは思えない」
「じゃあなんで」
私が気付かないと知っていて尚、フェロモンを浴びせたのだろう。
「……これから君は私たちがどういうときにフェロモンを出すのか学ばなくてはならない。その知識が君を守ることになる」
ケルシーがいくつかの冊子をドクターに手渡した。読んでおけ、ということか。
「エンシオディスの思惑がなんであれ、君の体は彼のフェロモンのせいで動き始めた。そして、これも推測だが君の体は雄のフェロモンを感知すればするほど生殖に適した体になっていくと思われる」
医用モニターの画像がぱっと変わった。
「これは内診の時の画像だが」
ドクターが渋面を作る。最新で極細とはいえ、内臓の奥を無機物のチューブに弄られたときの吐き気を思い出したのだ。
「直腸の途中に新しい臓器に続く道があり、その入り口は肉の弁で守られている。今のところ、弁はぴったりと閉じているがな。ここが卵巣、そして子宮。どちらも臓器として完成しているのに、未だ排卵の兆候はなく、女性のような月経もない」
今度はドクターが深い溜息をついた。
「……なんだか自分がとんでもない生物になった気持ちだよ」
「その感覚は間違っていない。君がその意識を常に持っていてくれればこちらも助かる」
ここで優しいフォローが飛んでこないのがケルシーである。
「つまり、今の状態をまとめると生殖に必要な臓器は完成しているけど、まだ動いてない。所謂、スリープモードみたいな状態ってことか?」
「分かりやすく言うならそうだ。だから君からはまだフェロモンは出ていない」
「でも他の人のフェロモンを感じ取ったらこいつらが動き始める可能性がある……と。とはいえこのロドスで、テラに居る限りはどうにもならないだろ? 執務室から一歩も出ないわけにもいかないし」
「勿論、君が引き続き職務を全う出来るよう、できうる限りの対策はとった。流石にクロージャには説明させてもらったぞ。彼女の協力が不可欠だからな」
確かに、彼女の協力は必要だろう。ドクターに異論はなかった。どさり、と目の前に見覚えのある衣服が一式置かれる。
「まず、君の装備を一新した」
ケルシーは一新と言ったが、見る限りは全く変わっていなかった。それはそうだ。下手に変わっていたら絶対にオペレーターたちの関心をひいてしまう。
「フェロモンを遮断する特殊素材で作っている。医療機関ではよく使われる素材だ。勿論、フェイスシールド周りも調整してある。今まで君は艦内で頻繁にこれを外していたが、その行為は今後改めるように。この服を着込んでいてもフェイスシールドを外したら意味がない。常に外にいる時と同じ警戒心を持ちたまえ」
「……了解。コンドームを貰った時も思ったが、内服薬的なものはやっぱりないんだな」
「薬の開発は簡単ではないし、例え作れたとしても後天的に変化した君の体にどんな副作用が出るかも分からない。それに今後も何かしらの変化が出る可能性もある。暫くはこれで経過観察をするのが現実的だろう」
新しいジャケットに腕を通しながらドクターは頷いた。
「それと……エンシオディスには気をつけろ。幸い彼はロドスに常駐していないが、今の君には危険すぎる。勿論、君も分かっているだろうが」
「……ああ」
それはそうだ。エンシオディスのせいで体が動き始めたのだから。それに、今のところ自分に対して強い性フェロモンを出す可能性があるのは彼しかいない。
「最終的に君がその臓器をどうするか、心を決めるまで私たちは待つ。だが、焦るな。以前も言ったように君に起きた変化にはおそらく意味がある。そしてそれを理解出来るのは君だけだ」
「理解出来なかったら?」
「君が今まで解を得られなかったことなど、ないだろう」
ケルシーが言うと信頼なのか、圧なのか分からない。ドクターは苦笑した。当然まだ自分の中で答えは出ていない。正しい答えを出せるのかも分からない。まだ、時間が必要だった。
当分は緊張が続くな。ドクターは少しの憂鬱さを感じながら、前のものよりも少し厚くなったフェイスシールドを仕上げにカチッと嵌めた。
◆貴殿は動き出した針を止められない。落ち始めた砂時計も止められない。
ケルシーから正式に通達された注意事項は三つだった。
一. 今後、身に着けるものは全て「新素材」で作られたものであること
二. ロドスの艦内外問わず、人前でフェイスシールドを外さぬこと
三. 他人と密室で二人きりにならぬよう留意すること
一と三は、そこまで難しいことではない。ドクターが一抹の不安を抱いたのは二の項目だった。誠意の証として、何かと頻繁に外していたフェイスシールドを突然外さなくなったら、何か言われるのではないか。過去の、冷徹なドクターに戻ってしまったと思う者も出てくるのではないか。ドクターはそう危惧していた。
しかし、ドクターには運命の女神が味方した。ドクターがケルシーから通達を受け取り暫くして、ロドスで伝染病が流行り始めたのである。といっても症状としては軽く、呼吸器官に少し影響する程度のものだったが、対策は必要だった。ロドスには戦闘員にも非戦闘員にも多くの鉱石病患者たちがいる。何がきっかけで悪化するかは分からない。そのため、アーミヤとケルシーの連名で各々しっかり感染対策をするようにという通達がされた。そのお陰でドクターがフェイスシールドを外さなくなっても特に目立つことはなかったのだ。そしてその姿に見慣れたのか、感染騒動が落ち着いた後ドクターが人前で頑なに覆いを外さずとも、誰も何も言うことはなかった。これはドクターにとって僥倖だった。
毎日腹部のスキャンをケルシーに送信していたが、フェロモンを感知しないように過ごせていたおかげで、ドクターの体の変化も止まっていた。これなら、これからもドクターとして働ける。ドクターがそう思い始めたある日のことだった。
その日のドクターは例によって徹夜続きで判断力がひどく低下していた。だからといってうっかり人前で覆いを外すなんてことはしないが若干の気の緩みは出ていたのだろう。そしてその日ドクターの執務室を訪れた客は、一分の隙も見逃さない男だった。
エンシオディスとはあの、熱烈な告白以来、つまりドクターの体が動き出したあの日以来だった。こんな状態で会うのは危険すぎるという理性の声と彼の気持ちを無下にできないという心の声にもみくちゃにされながらドクターは来室申請を受け取った。
自分に告白してきたエンシオディスを明確に避けてしまってはそれが彼の気持ちに対する「答え」になってしまう。彼が一個人の感情で契約を反故にすることはないだろうが、万が一ということもある。流石に、今カランド貿易との繋がりを断つわけにはいかない。そう、自分に言い訳をしながらドクターはエンシオディスの来訪を許可した。
勿論、無策ではない。『エンシオディスには気をつけろ』というケルシーの言葉にならい、ドクターは彼が訪れたときの対策を何通りか考えていた。執務室で二人きりなんて言語道断だ。疑われることなく、彼を執務室の外へ連れ出す方法が必要だった。
いくつか考えたうちの一つ、駄目元で口にした誘い、『テンジンを飛ばしながら甲板でおしゃべりでもしないか』。なんとこれが彼にあっさり刺さった。ドクターからの誘いは彼にとっても望むところだったのだろう。風が行き交う甲板ならば万が一彼からフェロモンが漏れ出してもまだ、何とかなる。その甘い考えも気の緩みから生まれていたのかもしれない。
そうやって彼を連れ出した甲板の上。ドクターは眠気でどろんと淀み始めた瞳を擦りたい衝動と戦っていた。勿論、シールドのせいで実行することは叶わない。仕方なく、ぎゅっと目を瞑ったり開いたりすることで、なんとか眠気をやり過ごしていた。目ざとい男はドクターのゆらゆらと揺れる頭からすぐに察したようだった。
「疲れているようだな」
「はは、まあ色々考えることが多くてね」
「ヴィクトリアでの活動を支援してくれる貴族は見つかったのか?」
「んー。その辺もまだ進展してないんだ」
「あの時、私がうまく立ち回っていれば状況は違っていただろうな」
「もしもを言い出したらキリがないだろう。それにもしそうなっていたら、カールたちは救われていないし、君も今私の隣に立っていないんじゃないか?」
「……そうだな」
甲板を風が撫でていく。フェイスシールドのせいで直接感じることはできないが、ジャケットの裾がぱたぱたとはためいているからきっと心地のいい風なのだろう。
ドクターは穏やかな空気が互いの間に流れているのを感じていた。こんなふうになんてことない話を、自分の好きなタイミングで語り合う。それだけじゃ駄目なんだろうか。互いのことをよく知るいい友人で、満足できないのだろうか。
だが、ドクターは風に流されない熱い視線も覆い越しにはっきりと感じていた。ああ、これに気付かないふりをするのは不誠実かもしれない。君が求める関係にはなれないと、早めに伝えたほうがいいのだろう。自分の体が変わってしまった今、何かの間違いが起こる前に。
そこまで考えてドクターは気持ちを伝えたときの彼の顔を想像してみた。すると、胸の奥がちくりと痛んだ。なんだろう、彼が悲しむ顔は見たくないな。ドクターは緩くかぶりを振った。疲労の蓄積した脳みそではここまでが限界だ。ひとまず結論を出すのは保留にしようと、脳内決定を下したその時。
突然、一陣の風が勢いよく傍を通り抜けた。
「ぅわっ……」
眠気と疲労により完全に気を抜いていたドクターは、ぐらり、と自分の体が後ろに傾くのを感じた。
——倒れる
ぎゅっと目を瞑って衝撃に備える。だが、ドクターの体を受け止めたのは硬い甲板の床ではなかった。
「大丈夫か」
あわや後頭部から床に激突するところを受け止めたのはエンシオディスだった。ドクターは安堵からふう、と息を吐いた。そして、うっかり、口を滑らせた。
「っは……。ありがとう、エンシオ」
ドクターを腕の中に捕らえたまま、エンシオディスは微かに目を見開き、息をのんだ。ドクターの後頭部に目が付いていれば、彼のとても珍しい表情が見られただろう。ドクターが思いがけず口にした言葉は彼にとってそれほど威力のあるものだったのだ。
転びかけたことで跳ねていた心臓が落ち着いてくると、ドクターはフード越しにエンシオディスの厚い胸板を感じた。彼とこれほど密着したことなどついぞない。フェロモン対策をしているとはいえ、この至近距離は流石に危険だ。ドクターは慌てて、体勢を立て直し、彼から離れようとした。
……が、出来なかった。後ろから回された腕がドクターの腰をがっちりとロックしていたのだ。抜けだそうと身じろぐ度に、腕に力が込められる。その力強さは、もはや拘束と同義だった。
「エ、エンシオディス……?」
「どうか……先ほどのように、呼んでくれないか」
困惑の色を隠さないドクターからの呼びかけに、掠れたテノールが甘い懇願で返した。常とは違う声色がフェイスシールドを越えて、ドクターの耳朶をじんわりと焦がす。心臓が再び早鐘を打ち始めた。
「さ、きほどのって」
「私をエンシオ、と呼んだだろう。耳が歓喜で痺れたぞ」
ドクターは必死にネジの飛びかけている頭を動かした。えっ、呼んだ? 私が呼んだのか? 脳内ですら呼んだことのない呼び方で彼を?
「イェラグでは、愛称で名を呼ぶのは家族か
「へ、へぇ……?」
はずみで呼んだだけだ、と言うつもりだった。期待させて悪かった、も付け加えて。だが拘束の中、なんとか体をねじって後ろを振り返ったドクターの視界に映ったのは、笑みを浮かべたエンシオディスだった。それがあまりにも嬉しそうで何も言えなくなってしまう。
暫く至近距離で見つめ合っていたが、ドクターははっ、とした。この腕の中から早く抜け出さなくてはいけないのだった。
「もう、大丈夫だから。この腕外してくれないか」
そう言って再び、もぞもぞと体を動かし始めたドクターにエンシオディスはわざとらしく片眉を上げた。
「名を」
ぐいっ、と顎を掴まれる。フェイスシールドの境目がズレてしまいそうでドクターは慌てた。彼は覆い越しにドクターをじっと見つめている。
「分かった、分かったよ」
ここは素直に言うことを聞いて、一刻も早く抜け出すべきだ。ドクターが了承すると、ほんの少し、腕の拘束が緩んだ。今度はしっかりと彼の方に向き直り、ドクターは正面から彼の名を呼んだ。
「エンシオ、外してくれ」
「承知した」
満足げな声と共にまるで拘束具のようだった腕が離れていく。ほっ、と安堵したのもつかの間、彼の手が素早く、ドクターの顎下に入り込んだ。
声を上げる間もなかった。ドクターの耳には、外されたフェイスシールドが床を転がるカラン、カランという音が、やけにクリアに響いていた。
ヒュッ、と喉が鳴る。反射的に抗議の声を上げようとドクターの唇が開かれた。獣は、それを見逃さなかった。
「エ……ん、むっ」
ドクターが大きく口を開けていたせいで、口付けは二人が初めて交わすものにしてはかなり深いものになった。ざらついた熱い舌に咥内をゆっくりと舐めまわされる。舌が粘膜に触れる度、ドクターは自分の脳髄が悦びで焼け焦げていくのを感じた。
「ンっ、んぅ……む……」
露になった両頬はいつの間にかエンシオディスの手に挟まれている。口付けは執拗だった。まるで今まで抑えていた感情をすべて、キスに乗せて唇から注ぎ込んでいるかのようだ。何度も角度を変えられては、中を舐められ、絡んだ舌を吸われ、歯で甘く食まれる。エンシオディスのキスは巧みだったが、不慣れなドクターは合間に酸素を取り込むことに精一杯で甘さに浸る余裕はない。溺れる人間が必死に水面で呼吸をするように都度大きく口を開けるものだから、皮肉なことにより一層口付けは深くなった。
獣は長く獲物を味わった。次第に口だけでは呼吸がままならず、本能的にドクターは鼻から必死に酸素を取り込もうとした。大きく鼻呼吸をした瞬間、何とも言えない甘い芳香を感じて、更に脳が痺れる。彼の香水だろうか。だが匂いの出所を考える余裕などなかった。粘膜を絡める度にあがるいやらしい水音がじっとりと鼓膜を濡らしている。
強張っていたドクターの体から力が抜けていった。このままでは本当に溺れてしまう。意識が白く飛びかけた頃、ようやくエンシオディスの舌が咥内から出て行った。飲み切れなかった唾液がドクターの唇の端から一筋垂れる。仕上げとばかりにざらついた舌がそれを舐めあげた。
「っは、はぁっ、な、な……」
ドクターの文句を先読みしてエンシオディスが目を悪戯に細める。
「外せと言ったのはお前だ」
腹を満たした獣特有の余裕を見せつけながら、そうのたまう男。ドクターは二の句が継げなかった。 言葉を省いたことをただただ後悔する。この男の前では、一瞬の油断も許されないというのに、気を抜いた自分の愚かさに狂いそうだった。そして、与えられる熱に無意識に歓喜していた自分の体にも。
もうキスはされていないのに、まだ唇が、頭が、脳が、心が痺れている。体はもはや、爪の先まで熱い。促されるまま飲み下すしかなかった彼の
「お前を前にするとどうにも抑えがきかぬな」
「抑える気なんかないだろ!」
「心外だな。私が自分を律していなければ、今ごろお前はイェラグ行きの飛行装置に乗せられている」
ひっ、とドクターがよろけながら後退った。慌てて足元のフェイスシールドを拾い上げる。エンシオディスはいつもの不敵な笑みを浮かべていた。
「また来る。お前が、私の舌の味を忘れた頃に」
聞こえない! とでも言うようにドクターはフェイスシールドを勢いよく嵌めた。子供じみたその様子にエンシオディスは低い笑い声を上げながら、艦内に続く扉へと歩みを進めた。主がこの場を離れることを察したテンジンが羽音と共に降下してくる。忠実な相棒を腕に止まらせると、彼は意味ありげに口の端を上げた。
「よくやった」
エンシオディスがテンジンに囁いた労いの言葉。それは突風にかき消されて、ドクターの耳に届くことはなかった。
壁に手を付きながら、熱でふらつく体を引きずってドクターは甲板から執務室までの道を歩いていた。この熱さは何だ。頬だけではない。唇から、まるで毒を流し込まれたように、全身が甘く痺れている。口付けの最中に感じた強烈な香気。まるで香水のように香っていたあれが、もしや雄が放つフェロモンなのだろうか。だとしたら、まずい。焦りと不安で心臓が脈打つ。
「ドクター様、お戻りが遅いので迎えに参りました」
キャッスル-3の冷静な声が今はとても耳に心地良かった。ロボットの彼からは何の匂いも感じない。それも安心する。甲板から執務室までの道を行く間、ドクターは段々とロドス内に漂っている色々な匂いを感じ取り始めていたからだ。今はしっかりとフェイスシールドをはめているはずなのに、なぜ匂いが分かるのか。考え始めると恐ろしさでどうにかなりそうなので、ひとまず無心に足を動かす。
「ドクター様。通常よりも歩く速度が遅いようですが、お体の具合でも?」
「大丈、夫。ちょっと、風に当たり過ぎただけだ」
「[[rb:私 > わたくし]]にはランセット-2のような医療サービスは提供できません。彼女を呼び出しますか? それとも医療部に連絡を?」
「いや、平気だ。もう少しで……」
執務室に着く、そう思いながら廊下を曲がった瞬間。匂いの塊にドクターはぶつかった。
「うわっ! ってドクター⁉ すみません!」
バランスを崩して壁に寄りかかったドクターに、ペッローの男性スタッフが慌てて駆け寄る。匂いが少し強くなった。それはエンシオディスが放っていた臭気とはまた違うものだった。
「ぶつかって、すまない。大丈夫だから……」
離れてくれ、とは言えずにドクターは手で彼の体をやんわりと押し返そうとした。だが、スタッフは勢いよくその手を掴んだ。
「きみ……?」
「ドクター……。すごいですね。今日のドクター、すっげーいい匂いがします」
掌に鼻を押し付けられてくんくんと嗅がれる。手袋に染み込んだ匂いを嗅ぎ取っているのか、それとも……そこまで考えてドクターの背中を冷たい汗がつたった。そうだ。自分がフェロモンをこれだけ強く感知できるようになったということは、自分もフェロモンを出している可能性があるじゃないか。目の前の彼はきっと、それを嗅ぎ取っているに違いない。間違いない。フェロモンを出す機能が、今、目覚めてしまったのだ。
クロージャやケルシーの想定していた以上のことが、きっと起こっている。だから、新調したフェイスシールドも服も役目を果たしていないのだろう。今、その状態は非常にまずい。丸裸でいるようなものだ。ロボットであるキャッスル-3はフェロモンを感知しないから、その事実に気付くのが遅れてしまった。もっと早く気付いていればケルシーに連絡したのに。
「はぁっ、その濃さ……たまらないですね。お誘いだと思っていいんでしょうか……あれ、でもドクターって男性じゃ……」
視界の奥でスタッフの尾がぶんぶんと振られているのが見える。目に見えて興奮し始めた彼の姿にドクターは焦った。だが、体の動きは鈍い。その気になり始めたスタッフから更に濃い臭気が立ち上る。ドクターは自分の中の何かが許容量を超えたのを感じた。
「ドクター様!」
キャッスル-3が自分を呼ぶ声。場に人が増える雰囲気。誰かが自分を無機質な筐体の上に乗せる感覚。ドクターの記憶はそこでぷっつりと途切れた。
鉛のように重い瞼を、ドクターはゆっくりと持ち上げた。ぼやけた視界にうつったのは医用モニターと、大きな機械、そこから伸びる医用チューブ。鼻を擽るのは消毒薬の匂いだけ。あの、鼻奥で粘つくような香気は感じられない。ドクターは自分が再び医療部の集中治療室にいるのだと理解した。
「目が覚めたか。君が寝ている間に一通りの検査はさせて貰ったぞ」
「……ごめん」
身を起こしたドクターが絞り出した謝罪の言葉でケルシーは全てを察したのだろう。だが、彼女はドクターを責めることはなかった。
「君が今日まで注意して過ごしていたのは知っている。エンシオディスの来訪に気付くのが遅れた私の責任だ」
「それは違う」
彼が執務室に現れたその時に、ケルシーに一報を入れていればこんなことにはならなかった。連絡を躊躇した自分の責任だ。だが、躊躇した理由が自分の中ではっきりとしない今、彼女にそれを伝えることはできなかった。
「結論から言う。君の体は完全に目覚めた。特に変化が顕著なのは汗腺で、君は今誘因フェロモンを継続的に放っている状態だ」
「誘因フェロモンって、ケルシーは大丈夫なのか?」
「君が発しているのが雄型の誘因フェロモンであれば、今頃私は顔をしかめているだろうな。だが、君が放っているのは雌型のフェロモンだ。影響はない」
「私は男なのになんでそっちのフェロモンが出てるんだ……」
「石棺で変化した部分に引っ張られているとしか考えられない。だが安心したまえ。念のため他の部分も検査したが、君の男性としての機能は失われていなかった。君はまだ、生物学的には男性だ」
『他の部分』をケルシーに検査されたことにドクターは少なからずショックを受けた。目覚めたてのぼやけた頭でなければきっと「は⁉」と声を上げてしまっていたかもしれない。
「……それは朗報だけど、雌型のフェロモンを出している以上、私に反応するのは男だけなんだろ」
「そうだ」
「……」
「複雑な心境なのは分かる。だが、これが事実だ」
医用モニターの画像がぱっと切り替わった。
「懸念すべきなのはフェロモンだけではない。見ろ。直腸にあった子宮へと繋がる弁が緩んでいる。検査の数値から卵巣も活発化していることが分かった。君の体は全ての準備を終えたのだ」
予想はしていた。甲板からの帰り道、全身がとても熱かったし、それは勿論腹部も例外ではなかった。エンシオディスとの接触で、自分はとうとう「仕上がって」しまったのだ。
ドクターは黙り込んだ。どうして自分の体はこのように変化したのだろう。石棺の気まぐれなのか。それとも何か、ケルシーが言うように何か大いなる意思が働いているとでもいうのだろうか。なぜ、男性の自分にこんな機能が足されたのだろう。
「まだ憶測にすぎないが、君に起きた変化に対する私の意見を述べてもいいか?」
まるで自分の疑問符を見透かしたかのようなケルシーの言葉にドクターは願ってもないと頷いた。
「君の体はおそらく、今テラで生きるものたちに必要な要素を体に宿している」
なんだか話が大きくなりそうだ、とドクターは首を緩く傾けた。
「今回偶然採取出来た君の卵子、と呼称していいか分からないが、別の名をつけるわけにもいくまい。便宜上、卵子と呼ぶが」
もう頭がどうにかなりそうだがドクターはその情報をなんとか飲み込んだ。
「これに含まれるDNA情報を分析した。驚いたことに本来なら母体の遺伝情報が含まれているはずなのに、君の卵子は恐ろしくシンプルな構造だ」
「うん?」
あまりにもな話でぴんと来ていないドクターを気にせずケルシーは続けた。
「卵子としての役割は果たすのに、自分の遺伝情報は残さない。つまり、君はどんな種族の精子も受け入れられるし、かつその遺伝情報を正確に残せる」
「ええとつまり、「父親」の遺伝情報のみを持った子供を作れるってことか?」
「そうだ」
「じゃあ子供は父親のクローンになる?」
「いや、先程も言ったように卵子としての役割は果たしているからそうはならない。とは言っても勿論憶測にすぎないが」
それはそうだ。こればかりは実際に
「はあ……私の遺伝情報はどこへいったんだ」
「君の精子には残っているから安心していい」
ぐっ、とドクターが顔をしかめる。
「そもそも君は私たちとは違う。それが更に石棺で変化したのだから、正直なところ私が持つ医学知識では理解が及ばなくなっている」
ケルシーの弱音ともとれる発言にドクターは少し驚いた。いつだって確固たる自信を持ち自分の目の前に立っていた彼女が限界を認めたのだ。ドクターは、不可抗力とはいえ彼女にそうさせてしまったことを申し訳なく思った。
「ロドスはテラに救済をもたらす
ケルシーが呟いた言葉にドクターが顔をあげる。
「……いや、今の言葉は忘れてくれ。適切でなかった。例え君がテラのどの生命の種も残せる体になったとしても、手段として使われるべきではない」
会話の初めにケルシーが言った言葉がドクターの脳をかすめた。
『君の体はおそらく、今テラで生きるものたちに必要な要素を体に宿している』
どんな種でも確実に残せる体が必要なほど、テラの状況は危うくなっているということだろうか? 確かに天災と鉱石病が蔓延する大地だが、そういう事実があるとは聞いたことがない。
「こんな意味の分からない体に頼りたくなるほどテラの出生率は低下しているのか?」
自虐的な冗談としてドクターはそう口にしたが、ケルシーの表情は堅いままだった。つまり、それが答えだ。
「……そうなのか」
少しの思案の後、ケルシーは口を開いた。
「国によって数値はまちまちだし、公表していない国もあるが、テラ全体で見ても確実に低下している」
「こんな状況で健やかに命を育む気になれないのも、仕方ないのかもな……」
ケルシーは一旦唇を閉じた。怜悧な瞳に再び思案の色が混じる。暫しの沈黙の後、彼女は棚から一冊のファイルを取り出すとドクターに渡した。
「君に渡した本にも書いてあっただろうが、そもそも私たちはストレスが生殖機能に大きく影響する。パニックを誘発しないよう、公表を控えているが実は、近年の出生率の低下は婚姻率と関係がない」
ファイルを受け取りながらドクターが驚きの声を上げる。
「関係がない、ってつまり」
「環境差や種族差もあるから一概には言えないが、望んでも子が出来にくい人々が増えているということだ」
それは大ごとだ。ドクターはファイルの中身を確認して更に息をのんだ。異常な角度のグラフはケルシーの言葉が真実であることを示していた。
「特に血統を重んじる貴族たちには死活問題でな。私の昔の知り合いも何人か秘密裏に解決策を探しているような状況だ」
「そんなことに、なっていたのか」
天災や鉱石病に抗っている最後の希望たち。ただでさえ過酷な大地で生き延びることが難しいのに、増えることを止められてしまったら……待っているのは滅亡だ。この大地は緩やかに死に向かっているのだ。確かに、ケルシーが先程のような言葉をつい、口にするのも頷ける。
「でも、それなら私も同じように妊娠しにくくなっているんじゃないのか?」
「検証が足りないので何とも言えないが、君は私たちと同じになったわけではない。あくまでも、石棺の影響で退化していた汗腺が復活し、雌の生殖器官が足されただけだ」
大地の変化に影響されず、確実に種を残せる体。確かに自分の体はテラに生きる人たちにとって垂涎ものだろう。
倒れる前、恍惚の表情を浮かべて自分を見ていたペッローのスタッフが頭をよぎった。だとすれば、エンシオディスももしかしたら誘因フェロモンの影響で暴走していたのかもしれない。ああ、だめだ。彼のことを考えると脳内が散らかる。ドクターは深いため息をつくことで思考を落ち着かせた。
「でも、確実に妊娠出来るとは言ってもね。私一人じゃ、テラの人口を増やすことはできないしなぁ」
苦笑と共に吐き出された言葉にケルシーの眉がぴくりと動いた。
「……正常に機能するという予測がたってるとはいえ、そもそも妊娠、出産は母体への負担が大きい。女性でも命を落とすことがあるのに、君は男性体で変化した身だ。何が起きるか分からない。そもそも君の体はまだ本調子ではないだろう。もし、テラのためになるなら、などという自己犠牲心で身を捧げようとするなら私は全力で君を止めるぞ」
「私の卵子を分析して人工的に増やす方法もあるんじゃないのか?」
「君の卵子に遺伝情報がないとはいえ、
ドクターはぽかんと口を開けた。ケルシーは医者であり研究者だ。そしてこの世界を救うためなら、なんだってするとドクターは思っていた。それこそ、もし彼女が今の自分の立場だったらきっとそうしただろうと考えていた。
「私のことは嫌いなんじゃなかったか?」
「……私は記憶を失った君が献身的にロドスに尽くしているのを今まで見てきた。勿論、過去の君がしたことを許すつもりはない。だが、今の君がしていることを否定するつもりもない。君が、テラの生命たちに慈愛を向けていることは私にもよくわかっている。そしてチェルノボーグでも伝えた通り、君の命が尽きるまで守り抜くことが、私の責務だ」
ケルシーの誠実な言葉はドクターの心にすとんと落ちた。同時に心に穏やかな波紋が広がっていく。冷静なケルシーの言葉でドクターは自分の理性が回復していくのを感じた。
「……私はこの器官をどうしたらいいと思う?」
ぽつり、とドクターが呟いた。まるで迷子の子供が行く先を訪ねているかのような、そんな声色。ケルシーの表情は硬いままだったが、眉の角度は平行に戻っていた。
「君が初めて倒れたときから私の気持ちは変わらない。自己犠牲からくるものでなければ、私は君の決定を最大限尊重する。例えば、君が……君の意思でその臓器を使いたいということであれば、私は出来得る限り力を貸そう」
「絶対に使うな、とは言わないんだな」
「君に起きた変化はテラの今の状況を鑑みるに、今後この大地を救うための突破口になる可能性を秘めている。ゆえに、君の体が完全に目覚めてしまった以上、私が決定を下すべきではないと判断した。その器官の持ち主である君が、君の心に従って決めるべきだ」
「研究者としての興味も少しは混ざってるんだろ?」
「……君の想像に任せよう」
はは、とドクターは笑った。少し、気が楽になった。自分がどういう決断をしようが、少なくともケルシーは力になってくれる。勿論、アーミヤだって。
この器官を摘出してしまえば話はきっと簡単だ。「ドクター」として働き続けるためには、そうした方が合理的だと分かっている。でも、この変化に何か意味があるのかもしれないと考えると、どうにも決断を迷ってしまう自分がいた。
「もう少し、考えてもいいかな。迷惑をかけて済まないけど」
「勿論だ。君の答えが出るまで、引き続き時間稼ぎをしなければな。今よりも更に強力な防護服が必要になる。クロージャに依頼しておこう。全ての準備が整うまで君はここから出るな」
「ああ」
「……それとエンシオディスのことだが」
言葉を区切られたことで、ケルシーが慎重に言葉を選んでいるのだとドクターは察した。気を遣わせてしまっていることに、少し申し訳なくなる。
「前から言っている通り、君のプライベートなことに私は干渉しない。だが、例えもし君が彼を信頼していても君の胎内の秘密を彼に明かすのはおすすめしない」
「トリプルSランクの情報を明かす程、彼とは親密じゃないよ」
ちょっとキスを交わしたくらいだ。勿論言わないが。
「……そうか。とにかく、ドクター。君の体が完全に目覚めてしまった以上、今までより一層気をつけねばならない」
ドクターは薄い腹に手を置いて、こくんと頷いた。
「君の変化を決して、エンシオディスに知られないことだ」
◆貴殿は選択を迫られる。いつものように、よく考えて選ぶべきだ。
…… 続きは本編で
以下はR-18部分のサンプル少し(エロの雰囲気は過去作読んで頂いたほうが早いかもです)
「あ゙っ、ゔぅ……っ」
強くして大丈夫。ドクターがエンシオディスの耳にそう囁いたせいで今、ベッドはこの五日間で一番激しく揺れていた。木製のクラシックなベッドが律動のたびにぎしぎしと音を立てる。がつがつと激しく中を穿たれ、ぐらぐらと揺れる自分の両脚がぼやけた視界に映った。深いところを貫かれる悦びに、大きな声を上げる。鼻にかかったドクターの嬌声を拾うたび、エンシオディスの銀毛の耳がぴくぴくと揺れた。
「んっ、ン……あぅ、そ、こ……すき」
最奥に至る弁をこね回されて、ドクターが背をしならせる。そこを熱い切っ先で突かれるとじぃんと脳髄が痺れるのだ。それが堪らなかった。
「覚えが早い。流石、優秀だなドクター殿は」
「んうっ、ん゙っ、はっ」
「どうする? この先の、快楽を味わうか?」
今でさえこれほど気持ちがいいのに? ドクターは数度瞬きをした。ぱたた、っと涙が散る。勿論、快楽により流れ落ちたものだ。もう、五日目。そろそろ、いいのではないだろうか。
無意識に唇を舌で湿らせる。
くわっ、と目の前の口が大きく開く。赤い舌と白い歯、いや、牙か。それに目を奪われていたせいでドクターは準備が間に合わなかった。最奥を貫かれる準備が。
「ア゙、ッ—————⁉」
まず、頭に走ったのは電流だ。脳を走り抜けたそれが、快楽を伝えたのか、痛みを伝えたのかは分からなかった。続けて、肉が肉の狭間を通り抜ける音と、感触を感じて瞠目する。そして、かたくて熱い先端が自分の内臓に触れ、ぐじゅり、と滑る感覚。
これは生きている人間が認識してよいものなのか。本来なら死ぬ間際に初めて得る感覚なのではないか。余りの衝撃にドクターは打ち上げられた鱗獣のように、はくはくと口を開閉させた。ぱちぱちとショートを繰り返す頭の奥では「死ぬ」「気持ちいい」「死んじゃう」「だめだ」「許して」「耐えられない」そんな言葉が、散っていた。
「ッは、ぁ、うっ……?」
今までの交わりがまるで児戯に感じるほどの衝撃。それもそうだ。初日に見せつけられたあの、長くて太い男根が、全て身の内におさまっているのだから。
不規則な動きを繰り返すドクターの口元をエンシオディスの舌がべろり、と舐めた。
「呼吸をしろ」
「ふっ、うぅ、はっ、はぁ……うぁ」
エンシオディスの言葉はどこか遠くの方で反響していた。だが、ドクターは何とかそれを拾って、言われた通り呼吸を繰り返す。薄っぺらい胸が上下するたび、引きつるように下腹も痙攣した。
「ひ……んっ、うっ、アっ、アア……」
途切れ途切れの嬌声と共に、ぶるぶると体が揺れて背がしなる。その動きと同時に強烈な快感を与えられて、エンシオディスが眉根を寄せた。どうやら彼の
暫くの間、ぴったりと体を重ねたまま二人は今までの激しさが嘘のように動きを止めていた。
・・・・
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